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蕎麦100年戦争

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 蕎麦が好きになったのはいつごろからだったろう。小学校高学年にはもう好きだったような記憶がある。札幌の蕎麦出汁は関東をさらに濃厚にしたものだ。麺類の出汁の濃淡については、関東と関西のいわば100年戦争で、決着はとてもつきそうにない。関西人の関東攻撃の定番は出汁の濃さで、初体験時には驚いて「半分残した」と判で押したようにいう。  京都時代は舌に合う蕎麦屋を探すのに苦労した。そもそも京都の蕎麦専門店は限られた高級店のみで、うどんと蕎麦をメニューにならべた店がほとんだった。京都に蕎麦屋が激増したのはここ10年から20年のことではないか。しかし、北前船で運んだ北海道のニシンを加工して、名物「にしんそば」に仕立てるのはいかにも京都らしい。   東京の老舗の蕎麦屋では、神田「藪」や同じく神田の「まつや」が有名である。作家の池波正太郎がひいきだったという。両店ともいつも客でいっぱいであった。今年はじめ、この「藪」が火事で焼け、全国ニュースにもなった。  東京の北、南千住の商店街に砂場がある。千住は江戸の宿場町だった。砂場建物も大正初めのもので、江東区の文化財に指定されているらしい。砂場は東京では赤坂、虎ノ門など何軒かある。てっきり東京発祥のブランドだと思っていたが、なんと大阪だという。大阪城をつくったときの土砂の置き場に屋台風の簡便な蕎麦屋ができ、砂置き場―砂場がいつの間にか屋号になったという。  鹿児島はそばどころで、一時期の生産量は全国でもトップクラスだった。最近はベストテンにようやく入るぐらいだが。蕎麦屋もそれなりにあるが、どちらかというと素朴で昔ながらの味が多い。東京風の蕎麦屋がポツポツとできはじめたのは近年のことだろう。東京で修業して開店したらしき店がいくつかあり、どこもそれなりに工夫がある。私としてはいまのところ、市役所向かい大通公園近くの「あき葉」、東千石アーケード内の「丸新」が気分に合う。 (2013.11.28)