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大塚のれん街

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 大塚駅周辺がどんどん開発されていく。思えば、数年前の駅ビルの新築が大きなエポックだった。2年前には、星野リゾートのビジネスホテルが駅の近くにできた。    駅北口の「大塚のれん街」は、つい先日、突然出現した。古民家風の木造の建物に何軒かの飲み屋が入り、それが何棟か連続する。寿司、焼鳥、餃子の店やいわゆる居酒屋など、全部で十数軒はあるようだ。思ったより安く人気が出るかもしれない。    大塚駅は山手線でただひとつの、路面電車と交差する駅である。レトロな感じがいまだに残りそこが気に入っていた。しかし流れには抗せず、今風の町になっていきそうな気配である。  大塚のれん街は、鹿児島の屋台村とほぼ同じコンセプトのようだ。鹿児島の屋台村は人気がありつつ、契約上の都合か何かでなくなってしまうらしい。この屋台村が大受けしたのは、微妙に懐かしい「界隈」の気分が漂っているのがよかったのだろうか。  (2018.11.26)

唄島フェスティバル

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 10月下旬、奄美大島の「唄島フェスティバル」に行った。元ちとせ、中孝介、里アンナなど、いま売り出し中の若手唄者が勢ぞろいして新曲「懐かしい未来」を歌った。ポップス調の明るい歌で、近日発売とのことである。驚いたのは若手の唄者がどんどん出てきていることで、奄美のエネルギーを感じた。偶然だが、奄美行きの直前、ユーチューブで「We are the world」を見た。マイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーがつくり、ボブ・ディラン、ダイアナ・ロスなど、アメリカの人気歌手45人が参加した。アフリカの飢餓と貧困解消のためのチャリティ活動で、CDの売り上げはすべて寄付される仕組みだった。  ところで、今回のイベントの副題は「奄美環境文化祭」である。「環境文化」は、屋久島で取り組んだ地域づくりのキー・コンセプトで、いわば自然との共生のことだ。屋久島以来、広めるべく頑張ってきたが、成果はいまいちであった。それから25年、今回奄美大島に突然登場したのである。それが島唄のイベントであったことが、とりわけ嬉しい。 (2018.10.30)

京大総長

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 先日、4年前からやっている研究会に京大の山極総長を招いた。ふだんは30~40名の参加者であるが、さすがにヤマギワ人気は高く、70余名が参加した。彼の話はいつも具体的で、さわやかな風が吹くような気分になる。いつかテレビでやった、アフリカのゴリラと二十数年振りに再会する(山極さんと壮年に成長したゴリラの)姿は感動的であった。   鹿児島環境学の旗揚げのシンポジウムは、9年前の平成21年1月に鹿児島大学稲盛会館で開催された。基調講演に山極さんを招いた。  会場一杯、300名の聴衆が、彼の話にグングン惹きつけられていくのがわかる。彼のサル学は屋久島から始まり、のちにアフリカでゴリラの研究をすることになる。  研究会の後飲みたかったが、どうしても新幹線で帰らなければならないという。タクシーで東京駅に行くのを見送った。雨がどんどん激しくなる。 (2018.9.28)

いちごかき氷

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 暑い。今年は暑い。  全国的には30℃代後半は当たり前で、40℃超もすでにあちこちあるようだ。金足農業のエースもバテるはずである。  むかし小学校で習ったのは、たしか山形市40何度かが日本記録ということだった。この記録はずい分長い間破られなかったのではなかったか。   札幌時代、巨人阪神戦の甲子園球場が37℃と聞いても、まるで実感できなかった。京都に暮らし始めたある日、目覚めたらこれが初の35℃体験だった。泳ぐように近くの喫茶店に行って、ようやくひと息ついた。その35℃が、いつの間にか東京でも珍しくなくなった。  こう暑いとかき氷を食べたくなる。できれば昔ながらの単純なヤツがいい。昨年8月、神田駅近くの喫茶店でかき氷を食べた。オーソドックスないちごシロップのかき氷だった。  かき氷といえば、鹿児島名物の白くまは昭和21年に発明されたらしい。とにかく大きく、彩(いろどり)で、チェリー、レーズン、ミカンや緑の寒天などが刺してある。 (2018.8.23)

じろう物語

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 大塚に引っ越してきてすぐだった。自宅裏の路地にひん死の猫がいた。せいぜい生後1ヵ月、獣医に連れて行ったが「とても育たない。これもなにかの縁だから家で看取ってあげなさい」と言われ、ガッカリして帰ってきた。これがなぜか甦って、今年の5月まで14年間生きた。名はじろうという。  茶虎の大型の雄猫だが気はやさしい。前からいた阿蘇出身の10才年上の猫に可愛がられた。4年前、これも駒込の道端の植え込みで拾われた妹猫を、いじめることもなく仲良く暮らした。路地時代にかかった病気のせいか、終生片目だった。室内での生活にとくに不自由はないようであった。家人の引っ越しに付き合って、東京→鹿児島→東京と移動した。鹿児島から戻るときは開通したばかりの新幹線に乗った。大阪乗り換えで7時間かかった。  猫は最初の1年が人間の20年に、その後1年が4年換算で年をとるという。その計算でいくと、14才は72才になる。長寿とまではいかないが、一度は獣医に見放された命だからよく生きた方だろう。 (2018.7.23)

花の6月

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 6月はいっせいに花開くというが、これはヨーロッパのことだろう。日本は梅雨の盛りで、東京でもこの時期はむしろ花は少ない。札幌は名物のライラックが咲くのが6月で、ライラック祭りも6月にある。北海道は梅雨もなく、ヨーロッパに似た気候のようだ。先日調べたら、イタリアのミラノと日本の最北端・稚内の緯度が同じだったのには驚いた。イタリアは、ヨーロッパでも南にあるという先入観があったし。何年か前、稚内に近いサロベツ湿原に行ったことがある。地元の人が10年に一度と言うほど、エゾカンゾウの黄色い花が湿原一面に咲き誇っていた。あれもたしか6月だったように記憶している。  屋久島は海抜ゼロメートルから2千メートルまであるから、標高順ごとにさまざまな花が咲く。屋久島シャクナゲが咲くのも5月から6月だ。数年前に屋久島の北の吉田集落に、里のエコツアー体験に行った。じつに楽しく、地元の主婦グループがつくってくれた昼食もすこぶる美味しくて大満足だった。  (2018.6.25)

村上主義

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 村上春樹の文庫新刊に、田中一村記念館を見に行った話が出てくる。彼はふだんはアメリカで暮らしているが、世界中の気に入った町に住んで小説を書くらしい。しかし、奄美の田中一村までマークしていたとは… さすがノーベル文学賞候補者だけのことはある(関係ないか)。  5月中旬は札幌にいた。ライラックの花が咲く直前だった。着いた日は暑くどうなることかと思ったが、翌日は一転して寒く震えるほどであった。この寒暖の変化は、いかにも北海道の初夏の気候である。  札幌から戻ってすぐ鹿児島に行った。存外暑くなかったが、桜島の灰が降っていた。むかし県庁に出向していたころはまだ旧庁舎(いまの県民交流センターの場所にあった)にいたが、当時の桜島はしばしば噴火していたような記憶がある。  鹿児島と北海道は縁が深く、北海道開拓長官として辣腕を振るった黒田清隆や、日本初の麦酒醸造所(サッポロビールの前身)を札幌につくった村橋久成は、いずれも旧薩摩藩士である。  ところで、村上春樹の熱烈なファンをハルキストというらしい。本人はこの呼び方はあまり好まず、せめて村上主義者にしてくれと言っている。 (2018.5.29)

さいはて

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 人間には、「さいはて」志向とでもいうべきものがあるようだ。北と南の辺境に作家や画家が行き、観光その他で人々が追いかける。  明治時代、作家がこぞって北海道を目指した。フロンティアの明るい気分というか、あるいは憧れに近い感覚が北の大地にはあったのだろうか。国木田独歩が東京郊外の里山の風景を書いた「武蔵野」は明治31年の作であるが、その3年前に北海道に行き原生林の中を歩いている。石川啄木は、明治40年の1年間に、函館、小樽、札幌、釧路と転々とした。そのとき、各地でつくった歌がたくさん残る。札幌の大通公園には石川啄木の歌碑・像がある。  南方への、異国情緒、あるいはふる里回帰願望とでもいうのだろうか、南島志向も根強いものがある。林芙実子の『浮雲』は屋久島が舞台である。「屋久島では1と月に35日雨が降る」という一節はあまりにも有名だ。昭和18年、作家の島尾敏雄は特攻隊長として加計呂麻島にいた。そして終戦後も奄美に長く住んだ。日本画家の田中一村は昭和33年に奄美大島に渡り、無名の大島紬の染色工として孤独に死んだ。昭和52年のことだった。 (2018.4.24)

シン・ゴジラ

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 新宿歌舞伎町にゴジラがいた。ビルの屋上から街を見下ろしている。ぎょっとしたが、よく考えると東宝系のシネコンがあるビルだから、ゴジラがいてもおかしくないかな?  シン・ゴジラという映画が大当たりした。2016年公開。環境省野生生物課の課長補佐が大活躍して日本を救う。首相やその周辺がみんな死んで、この女性課長補佐がいつの間にか課長代理になって、獅子奮迅の働きをする(らしい)。らしいというのは、じつはまだ見ていないからである。  アメリカ版のゴジラ「GODZILLA」というのもあった。1998年公開だから、20年も前のことだったのか。  ゴジラは1954年の東宝映画が初登場である。映画を見た記憶はないが、映画の前に少年雑誌の絵入り小説を読んだ記憶がある。当時はかなり凶悪な怪獣だった。ビキニ環礁の水爆実験で海底から甦ったという設定。たしか、口から放射能の火を吐く。1954年は、遠洋漁業に出かけた第五福竜丸が、ビキニで水爆実験の灰を浴びた年でもあった。  シン・ゴジラでは、野生生物課長(当時)が、課長(つまり自分)は一度も映画に登場せずに死んでしまった、とボヤいていた。  (2018.3.22)

俳優 大杉漣

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 2月22日は猫の日だった。2は(にやん)と読む。昭和62年に制定されたというから、もう30年にもなるわけだ。  環境省の動物愛護管理室によると、日本のペットの双璧は犬と猫で、これまでは犬がやや多いといわれてきたが、この1,2年、どうも逆転しているようだ。ノラ猫などもいて、実数がつかみにくいが、どちらも1千万頭程度と推計されている。  環境省の自然環境局は自然が専門、動物も野生生物を対象としてきたが、平成14年の省庁の統廃合で総理府から環境省に移管してきた。動物なら同じだろうという大胆な理由だったらしい。  近年、猫が増えたのは、何といっても住宅事情が一番だろう。犬、特に大型犬は広い庭でもないと飼えない。散歩もさせなくていいし、猫の方がかなり楽である。  何年か前に、大杉漣がモーレツ人事部長役の映画を見た。新人教育など苛烈を極める男だったが、偶然猫にはまって飼うようになる。インチキ猫を売りつける“もたいまさこ”のズルそうな目付きが絶妙だった。実際も猫好きだったという大杉が、突然亡くなったのは猫の日の1日前、平成30年2月21日のことだった。  (2018.2.23)